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第三話 再逢

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-09-07 08:28:26

|墨余穏《モーユーウェン》は翌朝、|尊丸《ズンワン》が持ってきた粥のいい香りで目覚めた。

「|墨逸《モーイー》、おはよう。無事に帰ってきたようだね」

|尊丸《ズンワン》は粥が乗った盆を床に置き、窓を何箇所か開ける。

差し込む日の光の中で、光沢を帯びながら漂う埃が、外へと出ていく。

「|尊丸《ズンワン》和尚、おふぁよぉ〜」

|墨余穏《モーユーウェン》は欠伸をしながら続けた。

「もう、全然余裕だったよ。何なら昔より若干強くなったかも」

|尊丸《ズンワン》は「え?」と驚き、目を擦りながら話す|墨余穏《モーユーウェン》を見る。

|墨余穏《モーユーウェン》は元々、|豪剛《ハオガン》の教えもあってか|内丹《ないたん》の霊力が高い。強靭な体力と知性を持ち合わせていることもあって、門派の中でも指折りの実力者だ。しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は無理をして己の限界を常に越えようとするところがあり、自分への加減が上手くできない。

前よりも更に力を身に付けたとなると、必ずどこかでまた同じ事が起こるのではないかと|尊丸《ズンワン》は心配した。

「|墨逸《モーイー》。あまり無理をしないようにね」

「はははっ。大丈夫だよ! 今度は死なないようにするから〜」

無邪気に笑う|墨余穏《モーユーウェン》に、|尊丸《ズンワン》は美味しくない物を口に入れた時のような苦笑いを浮かべた。

朝餉を終えた|墨余穏《モーユーウェン》は、|尊丸《ズンワン》に出掛けると告げて、仲の良かった後輩の|葉風安《イェフォンアン》に会いに行くことにした。

|緑琉門《りゅうりゅうもん》がある|緑稽山《りょくけいざん》には|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》という飛行術を使って飛んでいく。この術は三十里を半刻で移動できる優れものなのだが、鍛錬を続けている修仙者でもこの術はかなり霊力を消費する為、緑琉門の裏手の山に到着した墨余穏は既に息も絶え絶えで、木陰の大木にだらしなく凭れた。

(さすがに、甦ったばかりのこの体ではキツいな……)

|墨余穏《モーユーウェン》は緑琉門の中に入る時は、いつも正面の門ではなく、葉風安の住処の裏庭に繋がる裏手の山から侵入していた。|墨余穏《モーユーウェン》はようやく息を整え、|葉風安《イェフォンアン》の住処がある裏庭へと降っていく。

|葉風安《イェフォンアン》の部屋の窓には今も変わらず、たくさんの風鈴が飾られており、柔らかい音色を奏でていた。

風鈴の音に吸い込まれるように|墨余穏《モーユーウェン》がこっそり窓から部屋の中を覗くと、|葉風安《イェフォンアン》が独り言を言いながら、鳥籠の中にいる文鳥に餌を与えている。

(相変わらず、何かに話しかけてんだなこいつは。花の次は鳥か! )

すると、|葉風安《イェフォンアン》はずっと前から|墨余穏《モーユーウェン》がそこに居ることを知っていたかのように、突然に話しかけた。

「|墨逸《モーイー》兄、隠れてないで中においでよ。覗き見はよくないよ」

|墨余穏《モーユーウェン》は面食らい、窓枠に肘を置いて「何で分かった?」と尋ねる。

「|墨逸《モーイー》兄、僕は風を操る符術師だよ。君が甦ったことは、もう風の噂で知っていたからね。そろそろ、ここに来る頃だろうと思って待ってたんだ」

「はははっ! さすが|風立《フォンリー》! 元気だったか?」

歯を見せながら破顔する|墨余穏《モーユーウェン》を見るや否や、|葉風安《イェフォンアン》は扉を開けて|墨余穏《モーユーウェン》の目の前に俯いて立った。

|墨余穏《モーユーウェン》は、「ん?」と少し首を傾げ、訝しげに|葉風安《イェフォンアン》を見ていると、|葉風安《イェフォンアン》は勢いよく|墨余穏《モーユーウェン》に抱きついた!

「|墨逸《モーイー》兄〜! ずっと会いたかったよぉ〜! やっぱり死んだなんて嘘だったんだね! 僕は信じてなかったよ。君のような最強の呪符師が死ぬわけがないって! ねぇ、どうやって甦ったの? 誰かに土でも掘り起こされたの? 何か呪符の影響でも受けたの? やっぱり、|墨逸《モーイー》兄の父上の影響なの?」

「お、お、落ち着けって、|風安《フォンアン》。俺も分からないんだ。何で甦ったか……」

|葉風安《イェフォンアン》は「そうなんだ……」と一旦冷静になり、|墨余穏《モーユーウェン》から離れた。|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》を部屋の中に入れ、鳥篭がガサガサと揺れる横で緑茶を淹れた。

|墨余穏《モーユーウェン》はお決まりのカウチにドスっと腰を下ろす。

「相変わらずここは変わってないんだなぁ〜。風も良く通る」

「当たり前さ。ここは自然界がもたらした最高の天地だよ。青青とした緑が生い茂って、透き通る風と水がここにある全ての生命の礎を築いてるんだ! 先祖代々受け継がれたこの緑琉門の……」

「分かった分かった」

目を輝かせて話し始める|葉風安《イェフォンアン》を、|墨余穏《モーユーウェン》は軽くあしらった。

この自然の美しさを全くもって分かってもらえない様子に|葉風安《イェフォンアン》は唇を尖らせて、|墨余穏《モーユーウェン》に緑茶を差し出す。

「んで、|墨逸《モーイー》兄がここに来たのには理由があるんだよね?」

「はははっ。その通り。お前は、風の便りで何でも知ってる。最近の世勢はどうなっている? 何か変わったことはあったか?」

|葉風安《イェフォンアン》は人差し指を頬に当てながら、「ん〜」と少し考えを巡らせたあと、続けた。

「|墨逸《モーイー》兄も知ってると思うけど、|華陰山《かいんざん》に祀られていた|三神寳《さんしんほう》が盗まれてから、夜になると塵の如く妖魔や傀儡が漂い始めるようになった。最近はどこの門派もそれに追われていて、疲弊しているよ。あとはあの邪教の|鳥鴉盟《ウーヤーモン》が突厥と手を組み出して、何やらよからぬ事を企んでいるらしい。あとは……、今一番頭を抱えているのが、あの|青鳴天《チンミンティェン》が姉さんを嫁に出せと父上に脅迫してるってことかな」

「は? あのクソ|鴉《カラス》が、お前の姉さんを嫁がせろって? あの身の程知らずが!」

|墨余穏《モーユーウェン》は|青鳴天《チンミンティェン》という名前を聞いて、嫌悪感を抱いた。今、目の前に現れたら、即座に目を射抜いて殺してやるとさえ思う程だ。

|葉風安《イェフォンアン》が続ける。

「姉さんも嫌がってるし、誰があんな邪教に身内を嫁がせるかよって感じなんだけど、いつここに来るか分からない。あとは、皇帝の内紛と|金龍台門《きんりゅうだいもん》のジジイが死にそうだってことぐらいかな〜」

「ふぅ〜ん。そうか」

やはり、門派の大敵である鳥鴉盟が勢力を上げていることは間違いない。全門派を潰し、自由に統治を担ぎたいのだろう。だが所詮邪教は邪教。醜悪な者が頂点に立ったとて、均衡は保てず、統治などすぐに崩壊するのが目に見えていると|墨余穏《モーユーウェン》は思った。

すると、|葉風安《イェフォンアン》が思い出したかのように「あ!」と言葉を出した。

「あとは|賢寧《シェンニン》兄さんが最近、寒仙雪門の門主になったよ。|墨逸《モーイー》兄が死んだ後はずっと、閉関していたんだけどね」

「閉関? |賢寧《シェンニン》兄、何か悪いことでもしたのか?」

「いや、理由は全く分からない。文を送っても『心配には及ばぬ』の一点張りだったし。|墨逸《モーイー》兄もその内また、|賢寧《シェンニン》兄さんに会えると思うよ」

|葉風安《イェフォンアン》の最後の言葉に、|墨余穏《モーユーウェン》は軽く俯いた。

会いたい。でも、会いたくない。

|墨余穏《モーユーウェン》はそんな曖昧で、浮遊したどうしようもない感情に苛まれる。|師玉寧《シーギョクニン》に会ってしまったら、前世で抱いた叶わない恋の辛さがまた蘇ってしまう気がして、脳裏に浮かび上がる|師玉寧《シーギョクニン》の残像を思わず遮った。

「|墨逸《モーイー》兄?」

「……ん? あぁ、何にもない」

|墨余穏《モーユーウェン》は顔を上げ、情けない作り笑みを|葉風安《イェフォンアン》に向けた。

すると、そこに桃の入った籠を持った|葉風安《イェフォンアン》の姉・|葉鈴美《イェリンメイ》が、驚いた表情で部屋の中に入ってくる。

「……えっ?! |墨余穏《モーユーウェン》? どうしてここに?」

「おっ! 久しぶり|鈴美《リンメイ》! 美味そうな桃だな」

何の違和感もない|墨余穏《モーユーウェン》に、|鈴美《リンメイ》は自然と桃を渡してしまう。

強靭な力を持つ|墨余穏《モーユーウェン》は、桃をいとも簡単に真っ二つに割り、中の丸い大きな種を取り出して、ガブリと齧り付いた。

「ん〜、美味いなぁ〜! ここで作ってる桃か?」

「そうよ。私が作ってるの」

「姉さんの桃は何個食べても美味いんだよ。僕もちょうだい」

力のない|葉風安《イェフォンアン》は、受け取った桃を持って簡易的な厨房に行き、丁寧に皮を剥いて食べやすく切った一切れを口に含んだ。

その一口を噛み終えた後、|葉風安《イェフォンアン》は続ける。

「姉さんのことをさ、|墨逸《モーイー》兄に話してたんだよ。|青鳴天《カラス》に狙われてるって」

|葉鈴美《イェリンメイ》は溜め息を吐きながら、桃の入った籠を床に置き、空いていた一人掛けの椅子に腰を下ろした。

困り顔を通り越し、|葉鈴美《イェリンメイ》はどんどん顔色を悪くしていく。

「カラスから毎日手紙が届くのよ。最初は愛してるだのなんだの書かれてあったけど、近頃は早く結婚したいと申し出ろとか、さもないと父上や門派の命も危ういぞとか脅迫まがいなものばかりで……。ねぇ|墨余穏《モーユーウェン》、どうにかならない?」

「ん〜、どうにかしてやりたいけど、俺が下手に手出すとややこしくならないか? 俺がいない間にここを襲撃されても困るし……」

|墨余穏《モーユーウェン》は最後の一口を口に入れた。

少し落胆の表情を見せた|葉鈴美《イェリンメイ》だったが、気を取り直し「もう、この話はやめやめ!」と椅子から立ち上がった。

「今日は父上がいないの。|墨余穏《モーユーウェン》、ここで泊まってく?」

「いいね! |墨逸《モーイー》兄、泊まっていきなよ! 姉さんの飯は美味いよ〜」

|墨余穏《モーユーウェン》は目を輝かせ、「じゃ、泊まる!」と言った。

だが、移動させられた|墨余穏《モーユーウェン》は、しばらくするとくしゃみが止まらなくなった。

「ごめんよ、|墨逸《モーイー》兄。姉さんがここを掃除しろって」

「ったく……。何で俺が他所んちの部屋の掃除なんて……へ、へっくしょん!」

タダ飯は食わせないと、|葉鈴美《イェリンメイ》は|葉風安《イェフォンアン》に、|墨余穏《モーユーウェン》と一緒に使われていない部屋の清掃を頼んだらしい。

「そんなけ気が強ければ、|青鳴天《チンミンティェン》の求婚も断れるだろ……」

|墨余穏《モーユーウェン》はくしゃみを堪えながら、ぶつくさと嘆いたのだった。

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    |墨余穏《モーユーウェン》は翌朝、|尊丸《ズンワン》が持ってきた粥のいい香りで目覚めた。 「|墨逸《モーイー》、おはよう。無事に帰ってきたようだね」 |尊丸《ズンワン》は粥が乗った盆を床に置き、窓を何箇所か開ける。 差し込む日の光の中で、光沢を帯びながら漂う埃が、外へと出ていく。 「|尊丸《ズンワン》和尚、おふぁよぉ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は欠伸をしながら続けた。 「もう、全然余裕だったよ。何なら昔より若干強くなったかも」 |尊丸《ズンワン》は「え?」と驚き、目を擦りながら話す|墨余穏《モーユーウェン》を見る。 |墨余穏《モーユーウェン》は元々、|豪剛《ハオガン》の教えもあってか|内丹《ないたん》の霊力が高い。強靭な体力と知性を持ち合わせていることもあって、門派の中でも指折りの実力者だ。しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は無理をして己の限界を常に越えようとするところがあり、自分への加減が上手くできない。 前よりも更に力を身に付けたとなると、必ずどこかでまた同じ事が起こるのではないかと|尊丸《ズンワン》は心配した。 「|墨逸《モーイー》。あまり無理をしないようにね」 「はははっ。大丈夫だよ! 今度は死なないようにするから〜」 無邪気に笑う|墨余穏《モーユーウェン》に、|尊丸《ズンワン》は美味しくない物を口に入れた時のような苦笑いを浮かべた。 朝餉を終えた|墨余穏《モーユーウェン》は、|尊丸《ズンワン》に出掛けると告げて、仲の良かった後輩の|葉風安《イェフォンアン》に会いに行くことにした。 |緑琉門《りゅうりゅうもん》がある|緑稽山《りょくけいざん》には|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》という飛行術を使って飛んでいく。この術は三十里を半刻で移動できる優れものなのだが、鍛錬を続けている修仙者でもこの術はかなり霊力を消費する為、緑琉門の裏手の山に到着した墨余穏は既に息も絶え絶えで、木陰の大木にだらしなく凭れた。 (さすがに、甦ったばかりのこの体ではキツいな……) |墨余穏《モーユーウェン》は緑琉門の中に入る時は、いつも正面の門ではなく、葉風安の住処の裏庭に繋がる裏手の山から侵入していた。|墨余穏《モーユーウェン》はようやく息を整え、|葉風安《イェフォンアン》の住処がある裏庭へと降っていく。 |葉風安《イェフォンア

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